スマホがないと幸せを感じられない、スマホがないと何をしたらいいのか分からない、そんなふうになっていませんか?
自分の人生がスマホに侵食されている、幸せをスマホに依存してしまっている。私はその葛藤を日々抱えていましたが、抜け出そうとしては何度も失敗していました。
そんな悩みを抱えた中で、タイトルに惹かれて読んだのがこの本。読んでみて当たり前のことに気づきました。そうか、スマホを置いて出かければいいのか、と。
そんなことも思いつかないくらい、私はスマホ中毒だったのです。でもちょっとコンビニに行くくらいならともかく、地方に3泊4日って大丈夫?と思うでしょう。
それが意外と大丈夫なんです。人はスマホを忘れてしまったことに気づくと焦りますが、最初から自分の意志で持っていない場合はそんなに焦りません。
スマホを持たないちょっと不便でなつかしい旅、ぜひぜひ読んでみてください。
ふかわりょう著「スマホを置いて旅したら」とは
2023年に出版されたタレント・ふかわりょうのエッセイ。ふかわさんがスマホを持たずに、3泊4日で岐阜を旅した様子が描かれています。なぜ旅行先が岐阜なのかは、ぜひ本書の中で。
旅先で様々な景色や音や体験や人の優しさに触れ、またスマホから解放されたことで見えたのは何なのか?終始あたたかな目線で書かれています。
旅は非日常、スマホを持たないことはもっと非日常
スマホを持たずに旅することにした理由とは
スマホというのはいまやその人を映す鏡のようなものです。検索したワードの広告が出てくるようになったというのは、誰しも経験があるでしょう。
私の好みを知り尽くした私のスマホは、次々と私の好きなファッションの広告を打ち出してきて、それに足止めをくらうこともしばしば。
広告も含め、スマホは私にたくさんの出会いをくれますが、やや強制的です。どんどん先回りして私に情報を与えてきます。
それによってやってもないのにやった気になったり、逆に不安をあおられてやる気がなくなってしまったり。スマホを使いこなしているはずが、どんどんスマホの思うつぼになってしまっている。
そんなようなことを最近考えていたのですが、ふかわさんも同様に危惧していたのです。このままではスマホが自分の人生に影響を及ぼすのではないか、人生がスマホに先導されてしまうのではないか、と。
広告だけならまだいいでしょう。ニュースを見ても、過去の閲覧履歴が反映されたり、アルゴリズムの海の中を漂っている気がします。このアルゴリズムの鎖から解放されたい。アルゴリズムという足枷を外したい。このままでは、私がアプリになってしまう。
ふかわりょう「スマホを置いて旅したら」
こうしてふかわさんは数日スマホと距離を置くことにしたのです。
それともうひとつ、ふかわさんはスマホに奪われたものとして「ぼーっとする時間」を挙げています。
確かにスマホが普及してからというもの、スキマ時間には勉強とかLINEのやり取りなどが詰め込まれて、手持ち無沙汰な時間というのはなくなりました。
それは絶えず目と脳が使われているということで、私もふかわさんの書いているとおり、脳を休ませる時間は必要だと思います。
ふかわさんはこの旅でぼーっとする時間を取り戻すべく、本も持っていかないことにしたのです。
スマホを持つ前は無意識にぼーっとしていたのに、今では意識しないとぼーっとできません。お金を払って瞑想や座禅の体験をするくらい、現代人は「ただそこにいる」というのが、貴重な体験となっているのです。
スマホがないとやっぱり不便。でもなくても意外と大丈夫
そして心配なのはやはりスマホなしで旅行なんて本当に大丈夫なの?ということ。私ももはやスマホを持つ前、どうやって生活していたのか思い出せません。しかも旅行という非日常では、頼れるのは自分自身しかいないのです。
ふかわさんは旅行に行く前に、少しずつ予行練習を始めました。最初は寝室にスマホを置くのをやめ、次にカフェにスマホを持っていくのをやめ、最終的には仕事場にスマホを持っていくのをやめました。
本番の旅行前には入念に準備をしました。予め旅館や訪ねる場所の連絡先を書き留め、旅のしおりを作ります。あとは目覚まし時計と、カメラは撮影に振り回されないために、あえて撮れる枚数に制限があるフィルムの使い捨てカメラです。
うんうん、なつかしい。確かにスマホを持つ前の旅行ってこんな感じだったかも。今でも修学旅行のときって旅のしおりとかあるのかしら?
私はなつかしさを感じましたが、ふかわさんは初めての海外旅行の気分だと書いています。スマホのない世界に行くことは、もはや異国に行くことと同様なのでしょう。
それでもスマホがない旅行は意外と大丈夫なのです。トラブルといえば、初日に台風で名古屋からの在来線がすべて止まってしまったことぐらい。
行き先や宿泊先はすべて決めているので、何としてでも美濃に向かわなければなりません。スマホがあればすぐに違うルートをGoogleで調べることもできたでしょう。
今回ふかわさんは駅員さんに聞いて、なんとかバスで美濃方面に向かうことができたのです。ここらへんは本当にひとり旅の身軽さですね。
本当にトラブルといえばこのくらいで、スマホがなくても実に順調に旅行は進んでいったのです。スマホがなければ生きてゆけないと、勝手に私たちが思い込んでいるだけで、意外と大丈夫なようです。
私たちはスマホに時間だけではなく、自信も奪われているのかもしれません。
意外とみんなスマホから解放されたいのかも
スマホがあれば世の中におきている出来事をリアルタイムで知ることができます。一人でいても誰かとつながっていられます。
スマホを持っていることで私たちは社会とつながっていられるのです。でも知らず知らずのうちに、つながっているのではなく、もはや縛られていると感じている人も多いようです。
ふかわさんが旅先で、スマホを持たずに旅をしていると話すと、みなさんとても好意的なようでした。
「すみません、スマホを持たずに旅をしていまして」
すると、立ち上がった彼は間髪を容れずに言います。
「いいですね!」
あまりの大きな反応になぜそう思うのかを訊ねると、彼の口から思いもよらぬ言葉が飛び出します。
「だって、糸の切れた凧じゃないですか」
ふかわりょう「スマホを置いて旅したら」
スマホがない状態を「糸の切れた凧」と表現されていたのが、印象に残りました。そうか、私はスマホにつながれて、スマホに散歩させられていたのかと腑に落ちたのです。自分でも気づかないうちに、スマホを持つことにストレスを感じていたようです。
スマホを手放したいとか、スマホがない時代に戻りたいとか思うわけではありません。でもスマホがなかった時代の、自由さ、身軽さ、しがらみのなさ、時間の豊かさというのは確かにありました。
これから生まれてくる子たちはもう、一生それを味わうことはないのだなあと思うとかわいそうではあります。
そして大人になってからスマホを持った世代の人たちは、心のどこかでスマホを持つ窮屈さを感じながら死んでいくのだろうと思います。
私はスマホ依存症です。でもきっと私はそんなにスマホが好きではない。好きだから持っているのではなく、癖だから持っているのです。
惰性で持っているスマホから得られる時間は、惰性でしかありません。必要なときに必要な情報を引き出すぐらいの距離感であればいいのですが。
大好きだから手放せないのではなく、好きではないのに手放せないのが、スマホ依存の根の深いところです。
「スマホを置いて旅したら」がタイトルになるということが、「実はみんな、スマホのない生活を恋しく思っているんじゃないんですか?」という何よりの問いかけだと思うのです。
スマホの充電ばかりして、自分の充電忘れてませんか?
スマホを持たずに旅したことで、ふかわさんが得たものはなんでしょう。
スマホを持たずに旅してみたら、より土産話がたくさんできた。レンズ越しではなく、目の前の景色に集中できた。検索した店ではなく、自分の感覚でお店を選ぶことができた。いつもよりたくさん車窓を眺めることができた。
「コスパ」「タイパ」と言われる時代で、ふかわさんのやっていることはまるで逆行しています。
土産話をするよりSNSで拡散するほうが、より多くの人と共有できる。スマホのほうがより高画質の写真を何回でも撮り直しできる。検索したほうが迷ったり失敗したりしないし、車窓を眺めていたって何かが生産されるわけでもない。
でももう私たちは気づいているのです。コスパタイパがよくなっても、みんなたいして幸せになっていないと。コスパよく過ごすことが目的になっていて、本来自分がどうしたいのかがないがしろになっている。
みんなそんな世界に疲れているからこそ、もう一度スマホを通さず世界を見てみる時間が必要なんです。
スマホから離れたいというのは、あくまで意思決定は自分で行いたいという願望。画面越しでなく、誰かの目線や価値観を通過したものではなく、自分の感覚で実感したい。それはつまり、世界を愛したいということかもしれません。
スマホを置いて旅したら、世界を実感しました。表情が見えてきました。スマホによって省かれた時間や、感触を、取り戻すことができました。
しばしば、人生は旅に喩えられます。目的地を見失ったら、人生に迷ったら、スマホを置いてみてください。スマホの充電もいいですが、自分を充電することも、どうか忘れないでください。
ふかわりょう「スマホを置いて旅したら」
スマホを持っているとどうしても、「世間で自分はどのくらいのポジションなんだろう」というのが気になってしまいます。「今そこにいる自分」よりも「社会から見た自分」が実像だと思ってしまう。
他人からの意見が流れこみすぎて、自分の意志が見えづらくなってしまうのです。そんなときこそスマホを置いて自分を見つめてみましょう。
自分の気持ちは画面の中にあるのではなく、画面の外にある自分の中にあるのですから。